20年

20年前も今日のような、青い青い青空だった。
抜けるような、というのは、こんな空のようなことを言うのだろう。
悪夢のような交通事故は、ヘリコプターで青空のかなたへ飛んで行った。
私の壊れた肩は、理学療法士になった娘が、今もリハビリをしてくれている。事故のゴタゴタで心が壊れてチックになり、現れた高速まばたきと顔を顰める癖はここ数年見ていない。
一生寝たきりか車椅子と言われた息子は、髪をベージュピンクに染めて、大学に楽しそうに通っている。
幼稚園と障害者施設で働きながら、地域の子どものサッカーのコーチのボランティアも続けている。
去年始めたばかりのピアノは、よく練習しているからか、なかなかの上達ぶり。ピアノの音で童謡曲が響く我が家は、平和だ。あの日の空のように。
息子が20歳になった。
20年前の5月8日は、日曜日で母の日だった。
私は今日、2人の子のお母さんとして20歳になった。やっと、私も、大人になった。
意味わからん20年。めちゃくちゃな20年。つらいことだらけの20年。だけど、誰にも誇れる20年。
私の仕事も、終わりかな。
すごく、疲れた。
嬉しかったし、楽しかったけど、とても疲れた。
しんどさなんて、子どもが大人になれば全部あっという間、全部いい思い出、なんで大嘘。
ぐったりだよ。
だけど、子どもたちは、私にしてはかなり上出来に育った。自慢の娘と息子だ。まだまだ手がかかるけど、でも私じゃなくてもいいだろう。
私がいなくなっても、2人ともしっかり、幸せに向かって生きていける。幸せになれる。もう大丈夫。
思い出せないくらいたくさんの人(神様含む)に助けてもらった。でも、正直全然足りなかった。もっともっと助けて欲しかった。誰か助けてと何度叫んだ夜があったか。どれだけの相談ダイヤルに電話をしたか。何度役所や児相でキレたか。助けてくれと泣いたか。
喜びで張り裂けそうにならないといけない日に、私は言いようのない疲れを全身で感じている。
この感覚を、大事にして生きる。
私は、これから良い公認心理師、カウンセラーになるだろう。
知らなくていい痛みを身をもって知り尽くしていること、それが私の強みで、お守り。
今日も、あの日のような、どこまでも青い青空。ヘリコプターも、躊躇なく飛べる。
親友へ ベルサイユのばらを送ります 前編
昨日は、LINEありがとう。仕事ですぐ返事できなくてごめん。我が家では「ベルサイユのばら」という名前の薔薇が咲いたよ。

お子さんの、お掃除苦手なこと、相談してくれてありがとう。すごく悩んでたんだね。しんどかったね。
ねえ、ところで、かつて、お隣の部屋に住んでいた人のこと、あなたが誰より知ってると思うその人のこと、思い出して。
隣の部屋の私、の6畳一間の部屋がゴミ箱だったこと!
寮には2回、こっそり便利屋さん呼んで、掃除とトラックいっぱいのゴミ捨てをしてもらってたのよ。
分別ができないの。缶とか瓶とかプラとか。そこが始まりかな。その頃は診断されてなかったけど。
ゴミ箱を、ゴミだらけの部屋で紛失するの。
ゴミの中で住んでいたのよ。きっと臭いもしてたよね。
ゴミ部屋は、あの時がピークだけど。
やっぱ客を呼べない一人暮らしはいかんわ。マンション(職場寮)に引っ越して、人が来るようになったら、あそこまでにはならなかった。
ゴミ箱の中に住んでても、看護師免許は取れた。ナースも計25年やって、現在記録更新中。
今は家族全員ADHDなわけで、ヘルパーさんが週2で掃除に来てくれてるのよ。もう6年になる。手帳持ってるから、お金はあまりかからない。
子どもたち、カギどころか、なんでも失くす。
一軒家に住んでた子ども小学生の頃から、うちの子たち、カギっ子できなかったから、大変だった。
だって、姉である娘、カギ渡したら、3日以内に失くすんだもん。
弟なら大丈夫なんだけど、お姉ちゃんのプライドがある以上、弟にやらせるのは娘が可哀想だし、とか思ってたら、
実家庭(長子のみ配布)のプリントは全て届かなかったよ、、、。
失くしものが1番多いのは、子供達じゃなくて私。
私は毎日、
車の鍵、財布、診察券入れ、のうち、どれかをなくした事に気がつく。だけど、すぐは探さない。
だって、探すのって超ストレスなんだもん。
失くした時点で自己肯定感が傾く私を制止するので必死で、探すことまで手が回らない。
いよいよ必要になった時に、ようやく探し始めるだけど、その時は「車の鍵探して〜!」って叫んで、家族総動員で探す。
時々、私が出勤するのが最後になっちゃって、ひとりで大パニックになることがある。
でも安心して。
車通勤になって25年、一度もカギがなくて遅刻したことないから。
神様は必ず、散々探した場所に戻しておいてくれる。
大金もカードも持ち歩かない。
免許証と保険証は車の中。
診察券は病院に預ける。
車の鍵と家の鍵は引っ付いてる。
スマホは家の中でも首に下げてる。
それに私には、
あなた、っていう、
私を理解してくれて助けてくれる、素晴らしい本物の隣人を、神様は与えてくれた。
1番汚かった頃の私を見守って助けてくれたあなたには、感謝しかない。
今の私がいるのは、あなたのおかげしかない。
本当にありがとう。
お子さんの話に戻って、
ちゃんと、彼は生きていける。
ひとりでも、誰とでも。
どんな工夫をすれば生きていきやすいか、それは人によって違うけど、
それを見つけていくのも、彼の人生。
ゴミが捨てられなくてもいいじゃない。
ボランティアセンターでは、おじいちゃんたちのお菓子のゴミを、捨ててあげてるかもよ。
自分のことをすることが苦手でも、外ではできる子は多いよ、私と子供たちも含めて。
大丈夫。あなたは子どもの理解者になれる。
だって、そうでしょ。
その昔、ゴミ箱に住む私の、唯一無二の理解者だったんだから、昔できてたことを、できないわけない。
安心して、あなたらしくいれば、それでいいよ。昔も今も。
天使への階段
ここに引っ越してきて、15年。
母子家庭10年。
ワンオペの育児の相談を聞きながら、贅沢言ってんじゃねえ、と思いながら、過ごした頃もあった。
40キロギリギリまで痩せたこともあった。
難病が2個も発症した。
それでも働き続けたのは、私が働けなくなったら、子どもは施設行きだからだ。
息子のサッカーの送迎、挫けそうになったら、チームのみんなが助けてくれた。
娘が学校に行けなくなって入院して、私まで倒れかけても、みんなが支えてくれた。
ここで再び公務員になったのは、その仕事が好きだったからじゃない。
体の弱い私が安定して子どもを育てるには、それしかなかったからだ。
最後はパワハラでつらかった。
誰も助けてくれなかった。
幸いにも、2人の子どもの大学までの学費は、財形貯金に退職金を合わせれば、間に合うことが分かった。
わたしは公務員を捨てることにした。
18歳の頃の夢に、20年のブランクを乗り越えて、挑戦することにした。
私は、ホスピスのナースになりたかった。
人の死に向き合い、亡くなる方も、残される方も、良かった、って思えるお手伝いをすること。
それが私の夢だった。
つらかった日々は、文字通り「天使への階段」だったんだと思う。
私は明日から、天使に戻ります。
プライド
先日のFNS歌謡祭で、ASKAが出てきてPRIDEを歌った。
薬の人なのに、もうテレビは許したのか、同じ福岡出身の酒井法子はまだ表だった活動はできないのに、男の人は出てこれるのか、男女差だったら不公平、それとも元々の人気の差?と思ったり。
焼け木杭に火がついてしまうに違いないと、SNSで昔の知り合いを簡単に探せる世の中になったのに、私は10代の頃の恋人と、出会わないように気を付けていた。独身時代。
共通の友達と繋がっても、その人の連絡先を知っていても言わないで、と言い続けてた。
私は彼が幸せになるために、彼は私が幸せになるために、お互いがいない方がいいと思ったから、別れた相手だった。
最後に交わした言葉は新幹線のホームで「着いたら電話するね」「うん、待ってるね」だった。
電話はかかってこなかったし、私からもかけなかった。
それは言葉を超えた深い愛であり、私と彼は同じ気持ちだった。そんな素敵な悲しい恋をした。
16歳から20歳の青春時代を全部捧げた恋は、本物すぎて、あまりにも本物すぎて、それ以降も彼以上の恋に落ちた相手は、現れなかった。
そんな彼がどうしているのか知りたくなったのは、人生の半分を過ぎた頃。生きているのか、幸せになっているのか、知りたいと思った。私も再婚したし、今さら灰に火はつかないという思いもあった。
しかし、知人を辿っても、誰も彼の消息を知らなかった。中学が同じだから、誰かはきっと知っているだろうと思って、同中の友達先輩後輩に聞いてもらっても、本当に誰も知らなかった。
私は、かえって心配になった。なぜ見つからないの?どうして誰とも繋がってないの?死んだり犯罪を犯したりしてたら、誰かを通じて風の噂が流れてくるだろうけど、それはないから、無事に生きてはいるんだろう。
そうは思っても心配は消えない。彼は友達があまり多くなかった。家族はいるのだろうか。親御さんとの関係は、どうなっているのだろうか。
今、孤独の中にいないか、それが心配になった。最後の手段、宗教づてに探そうか、と思ったりもしていた。
彼は、チャゲ&飛鳥が大好きだった。飛鳥のように髪をサイドバックに上げているのが、とても似合っていた。カラオケでもたくさん、歌ってくれた。チャゲ&飛鳥=彼との思い出の曲、だった。
そして、前日、ASKAがテレビに現れた。歌った曲は、PRIDE。彼もよく歌っていた曲だ。
「心の鍵を 壊されても
譲れないものがある PRIDE」
腑に落ちた気がした。
彼は、今、孤独であっても、それを私に知られたくない。幸せであっても、それを私と話して喜びを分かち合うことをしたくない。
昔のように、傷を舐め合う関係になりたくない。
あの頃私たちは、尾崎豊の「I love you」そのままの関係だった。似たような境遇で、お互いの寂しさを、お互いの肌の温もりで埋め合っていた。
それが本当の恋だったのか、愛だったのか、付き合っている当時は、私にも断言できなかった。
新幹線のホームでキスを交わして手を振り、それが別れとなってしまった後に、私たちは愛し合っていたことに、気がついた。
でもそれは別れをやめる理由にはならなかった。2人ともがそれぞれ本気で悩み、同じ魔答えを出した。それが、私たちの愛だと思ったから。
私は、彼を探すのは辞めることにした。
もう一度出会う必要があるのなら、必然的に出会うだろう。
今はまだ、その時ではない。一生その日は来ないかもしれない。
精一杯の強がりで、笑顔で手を振った、新幹線のホーム。
あれが私たちの愛の集大成。
一生に一度、そんな恋ができたこと、心に秘めて、誇りを持ってこれからも生きていこう。
それが私の PRIDE
誰のために本を造るか(読書感想文から随想)
話題図書、「世界でいちばん透きとおった物語」を読んだ。

昨日、病院で休職を1ヶ月延ばすことと、手術を1か月早めることを聞いて帰ったら、密林からいつものオシャレだけど再利用し難いパッケージで届いていた。
ミステリーを買ったのは、子どもの頃の〇〇文庫以来かもしれない。ミステリーは頭を使うし読み終わった後に気分が暗くなるので、本の虫であった私でも、好まなかった。
前回、長い休職をした時に、ミステリー好きな娘に何冊か「読んでみてよ」と無理やり本を押し付けられ、
「最近のミステリーは、特急列車や観光地で起きるものではない」
「普通の読みやすい小説と同じく、後味がさっぱりしている」
と言うことを、ようやく知ったばかりだ。
一昨日、密林に勤めている旧友が、「紙の本でなくてはいけない本だ」と感想を書いていたのに、興味を惹かれた。
彼女も、子どもの頃からの本の虫。たくさんの本を貸し借りして読んだ。
娘の部屋にある「魔女の宅急便」は、小学生の頃、彼女から借りパクしたままになってしまった本だ。
彼女の3行ほどのレビューを読んで、密林で本を探した。
私は「単行本を手にしてその重みやインクの色、紙質などを十分味わい尽くしてこそ、本の本たるものを感じられない」と思っていたので、文庫本は買わない、電子書籍は読む価値なし、くらいに思っていた。
しかし、この本はどれだけ探しても単行本が見つからなかった。仕方なく文庫を1クリックした。
実は、私の亡き父は出版社をしていた。家族経営の小さな会社だったので、父は編集から営業まで全部1人でやっていた。父自身が原稿を書くこともあった。挿絵は母が色を塗り、私は高校生ながら、原稿用紙1枚5円で校閲をしていた。
住んでいた家は、在庫の重い本が詰まった段ボールで、あちこち床が抜けかけていた。
本を1冊造るのに、中の紙、外の紙、インクの色、字体、表紙の紙質など、たくさんのサンプルの中、家族会議であーでもない、こーでもないと言いながら何日も論じ合った子供時代。
文庫本は読み捨てるもの、という感覚は父の作る本への敬意と、本屋の娘という誇りでもあった。
どれがタイトル?
本作に戻ろう。
実は私は120ページで、この本に隠された答えを見つけてしまった。その瞬間、手の中の文庫本は透き通った。
仕掛けのわかったミステリーに読む価値を見失ってしまう人もいるだろうが、私はミステリー好きではなく、「物語」が好き。
本は薄いし、論調は今風で柔らかいし、さらさらと最後まで、1人の青年の物語を読んでしまった。
ラストは予想通りすぎた。
しかし、それでも、心は温かくなった。
どうしても「本を造る」ことに生涯をかけていた、父と重なった。
いろいろな理由で、父の出版した本はほとんど残されておらず、私の手元には上下巻組の紙箱に入った専門書1組しか残っていない。
その本のあとがきは、印刷以外のほぼ全てを自分でやっていた父が書いていた。
そのあとがきが、漫才のような内容で、私はとても恥ずかしく、最初の方だけ読んで本は封印されていた。
しかしこの小説を読んだ後、私はまっすぐ部屋に向かい、父の本を開きあとがきに目を落とした。
あとがきの終わりの方に、父が本作を造るにあたって込めた想いが綴られていた。
1 普遍性があること
2 科学的であること
3 後生に残ることを信じて
父は、漢方や薬膳が全くマイナーな時代に、東洋医学書の出版と販売をしていた。
当時、東洋医学(中医学)は、胡散臭いイメージがあり、今のように身近なものではなかった。
父は、続いて、このような言葉を残している。
「ブームで終わるものなら作らなかった。100年後にも通用し、評価されるだろうと信じて。」
本日、1時間半の短時間で読み終えてしまった小説、「世界でいちばん透き通った物語」は、私に父の教えをたくさん思い出させてくれた。
身体を冷やすと言って、生野菜は絶対食べなかった父。
「地物で季節のもので、その時の自分に必要なもの」であれば、生でも良いとされた。それがこれ。

きゅうり。今朝、産直で買ってきた、新鮮なもの。
今、私はステロイド剤の副作用で全身浮腫がひどい状態。
父は、「夏に浮腫む時は、水捌けをよくするキュウリと、利尿作用のあるアイスコーヒーをたくさん摂りなさい」と私に教えた。
奇しことに、私は暑くなる前に、キュウリを山ほど買ってきて、家族で食べようとしながら、この本を読んだのであった。
本を造る人、その思い。
父が子にかける思い。
その両方があるからこそ、その本を今朝読んで良かった、と思える。
亡き父に手を合わせたくなる物語であった。
最後に、どれがタイトルかもわからない、父の本を復刻販売し、後世に残してくださっている、谷口書店様 https://xn--z8j3ah2b4856byrk.com/ に心から感謝申し上げます。
予防接種 「みんなのため」の意味
予防接種、受けない人が増えている。
子どもに受けさせない人も増えている。
義務ではなく、任意。
それでも、国や地方公共団体が、全額払って打たせているのは、「病気の予防」だけでなくて、「公衆衛生」の意味もある。
今日は「みんなのため」の予防接種について、考えてみたい。
(個人の意見です)
私たちは子供の頃、おたふく風邪や水疱瘡の予防接種を打たなかった。
幼稚園とか小学校とか、適当なところで小さい時にかかって、免疫を身につけていた。
そして、クラスで同じ病気が流行るたび、暴露を受けて再感染を繰り返し、免疫力を高めて、終生免疫となっている。
これらの病気は、大人になってかかると、重病になる。だから、小学校までに罹らないと、自費で予防接種を打ったものだ。
だけど、風疹や麻疹は、その頃すでに「あまり流行らない病気」だった。だから、ブースター効果で免疫を強くすることができず、失っている人も多い。そのため、妊娠すると麻疹風疹の抗体検査をして、罹らないように予防する必要があった。
今、ある年代の男性達に限り、風疹の予防接種の助成がされているのも、生まれくる新しい命を先天性風疹症候群で耳の聞こえない子で生まれされないためだ。
今は、麻疹風疹については、1回の注射では95%の人にしか免疫がつかないし、ほぼブースター効果が見込めないから、全員2回接種になっている。
私よりひとつ年上の人までは、直径1.5センチほどの、丸いケロイド状の予防接種の痕がある。種痘、天然痘(痘瘡)という病気の予防接種の痕だ。
種痘は、天然痘(痘瘡)という、たいへん死亡率の高い恐ろしい感染症の予防接種のこと。種痘が開発され、世界中で予防接種を実施した結果、1980年にWHOが撲滅宣言をした。予防接種によって、絶滅した病気だ。
天然痘の予防接種、種痘の歴史は古く、18世紀。ジェンナーが少年(自分の子どもという説も)に牛の乳搾りの女性の抗体を切りつけて塗った、というところから始まる。
日本に伝わったのは明治18年。予防接種どころか医療の技術も低く、「手を洗うと、手術の後の生存率が高くなる」とか発表されていたレベル。もちろん予防接種の後遺症や副反応も今よりひどかっただろうし、そもそも注射器の消毒すら、昭和の終わりまでちゃんとしてなくて、だから予防接種回しうちによるウイルス性肝炎というもので、現在も国が補償をしている。
「天然痘にかかって死ぬくらいなら、種痘を打とう」という先人達の200年にわたる努力によって、天然痘は地球上から根絶された。
だから、私の歳から後の人には種痘の接種痕が、ない。
今、予防接種を受けない人、受けさせない親、受けさせてもらえなかった子、が増えている。
その人たちの選択を責める気はない。なぜなら、その人達は、自然感染して、周りにウイルスや菌をばらまき、予防接種を打った人の抗体を高める役に立つ、からだ。
だけど、選択権のない、「受けさせてもらえなかった子」はどうだろうか。
成長とともに罹患したら、重症化する。水痘や麻疹は命を落とす。自分の子どもの耳が聞こえなくなる。原因を作ったのは「受けさせなかった親だ」と言われる。もちろん、公費接種の期間をすぎても、自費で予防接種は受けられる。大人になって、自分で働いたお金で、予防接種を受けることはできるけれども。(何万円だが)
じゃあ、コロナワクチンはどうだろう。
私は、職業と担当業務、患者様に接する最前線にいるので、1番に打つことになった。
でも、この職業でなければ、絶対躊躇した。1番最初に打った最前線の医療従事者達は、記録をつけさせられた。治験のようなものだ。どれくらいの割合でどんな副作用が起きて、、、。
私だって、20代の30%以上が副反応で高熱を出すワクチンなんて、打ちたくなかった。もっと安全性の高くて、変異ウイルスにも効果が高いワクチン開発されてから、打ちたかった。でも、打ったから、最前線で仕事をできる、自分がいる。(ワクチンを打っていても、罹る時は罹ります)
今、ワクチンを受けている人は、自分が罹っても重症化しないため、他の人にうつさないため、コマーシャルの言葉のとおり、「自分のために」「みんなのために」副作用が強いと言われていても、勇気を出して受けに行ってます。家族にうつさないために、予防接種を受けられない12歳未満の子供達のために。
予防接種は、ある意味「愛」だと思っています。だから私たちも、愛を届けたい気持ちに応えるべく、必死でワクチン接種が早く進むように、力を尽くしています。
夜中の2時に届く、県や国からのメール。100時間を軽く超える残業。鳴り止まぬ苦情の電話。
県や政府や上層部の方針変更で日々変化を求められる現場。昨日までのことが全てゴミ箱、突然全然違うことを明日までにやれと言われる。虚しさを感じながらも、「公衆衛生」の仕事をしています。
18歳にもうすぐなる娘はワクチン受けたくないと言います。中高生は夏休みのうちに予防接種受けれるようにしてあげたいけど、今のペースでは間に合わない。
医療系に進む娘は、絶対、「コロナワクチン打ってないと授業受けれない、実習に行けない」になると予想されるので、みんなが打つ時期に、打ってくれるといいなあ、と思いますが、この年齢では絶対に、2回目の後、2日は寝込むと思われます。
受験に差し障らない時期に、打てるといいと思います。
(何よりも、コロナにかかって受験に行けなかった、は最悪です。。。)
息子は、私立大学の附属なので職域接種で受けれることを期待しています。ワクチン打ってないと試合に出れない、遠征に行けない、になることは確実でしょう。
そういえば娘も、大手交通系企業の運営する高校なので、夏休みのタイミングで職域やってくれると本当に助かります。交通系、観光系の企業で今は暇になっているので、その間に職員みんな打っちゃえば、安心ですよね。秋の行楽シーズンには、間に合うかもしれません。
でも、やっぱり、自分の子ども達が受けるのは、副反応が少ないワクチン開発されてからがいいな。10代は重症例はほぼ無いし。
今、コロナワクチンは、明治18年の種痘ワクチン状態。日本に伝わったばかり、国産ワクチンはまだなし、ワクチンを打って、1年後抗体がもつかどうかのデータもない。(1年経ってないから、当たり前)何年に一回打てばいいのか、毎年なのか、一生効くのか、誰もわからない。変異型にワクチンが効果がどれくらいあるのか、これから新しく出てくる変異型には効果を発揮するのか、誰もわからない。
私は、うちの職場で1番に予防接種を打った理由はまだあります。打っても大丈夫、と、後に続く職場の人に安心を与えるために、1番を引き受けました。みんなが躊躇する現場に、1番に飛び込める人になるために。「みんなのため」の予防接種です。(幸いといっていいかどうか、私は2回目副反応がほとんど出なかったため、変な安心を周りに与えてしまい、みんなに「こんなひどいとは聞いてない」という見本になってしまいましたが。)
それからもうひとつ。私自身が、予防接種を正しく打てる人になるために。現場でナースが不足した時に、「打つ係」として駆けつけられるように。
雇上げのパートナース達に、正しく「打ち方」を指導できるように。より安全な集団接種を行うには、どうすれば良いか、考えるために、1番に打ちました。
今回のコロナが終息しても、長生きしても、次の病気は次々出てくるでしょう。
追いかけっこです。人類が負ける日がいつ来てもおかしくない。
予防接種は増えるでしょう。その一方で、消える予防接種も少なくてもあるでしょう。だけどそれは、地球上の人類全員、肌の色も言葉も文化も国籍も超えて浸透しないと起きない奇跡です。
「みんなのため」の言葉の深さを知って欲しくて、今日は長文を書いてみました。
ちなみに、うちの娘は子宮頚がんワクチンを受けていません。しかし、任意で自費でB型肝炎ワクチンを受けさせました。
何が必要で何が不要か、考えてあげられるのは親と周りの大人だけ。正しい知識を持って、「なんとなく」とか「みんなそうだから」とか「怖いから」ではなく、判断をしてあげてほしいと思います。
次の世代、次の次の世代、子ども、孫、ひ孫、玄孫たちのために。
※ 個人の意見です。
平成から令和へ 家族を考える17連休
世間は10連休に胸躍らせる、ゴールデンウイーク1週間前、実父が亡くなりました。
両親が20年前に離婚し、私は母と暮らしているため、ほとんど連絡も取り合わない父でした。
親戚は誰もおらず、子どもは私1人。生まれた地とはいえ、たった1人で最期の時を苦しく過ごすのはいたたまれず、夫が背中を押してくれたこともあって、大阪から民間救急車で県をまたいで家のそばの病院に転院し、苦痛を伴う処置は全てやめて、手を握って看取ることができました。父は最後は穏やかな顔をして、眠ったまま逝きました。

火葬までの間、孫になる子ども2人と夫と、父のそばで父の大好きだったポーカーなどをやり、みんなで賑やかに過ごしました。
父は奇しくも誕生日の日に煙になって青空に上りました。

忌引きからそのままお休みに入り、まさかの17連休に。
平成から令和に変わった5月1日、夫の実家の岡山に子供達を連れて5日までゆっくり過ごしてきました。
新しい家族はあたたかく迎えてくれました。子どもたちも新しいおばあちゃん、ひいおばあちゃんになつき、すっかり自分の実家のようにくつろいでおりました。

小学校6年生の時、「昭和から平成へ」というタイトルで作文を書きました。
あれから約30年。私の家族形態もなんども変わり、今の家族がいます。
家族を大事に、穏やかに暮らしていける、そんな時代を過ごせたらいいな、と思っています。

地球規模の夢は持てない小さな私ですが、大切なものを大切にする暮らし、をして、次の時代まで夫とともに生きたいと思います。