5位 繋がり
4位 勇気(づけ)
3位 出会い
2位 気づき
1位 学び
アドラーが嫌いなわけじゃない。
その言葉を使ってる友人たちが嫌なわけじゃない。むしろ大好きな人ばかり。
でも、言葉がひとり歩きしてて、「きさんがゆうと?」みたいな人が、世の中に多すぎる(棘のある言葉は博多弁でオブラート)。
平和やよねー、そんなんばっかりで生きてる人。
私も、平和ボケしたリア充Facebookを書いてるけどさ、もしあれが私の全てだとしたら、私はお花畑で生きてるよね。
血と汗と何が混ざってるかわからない体液、腐ったコンビニ弁当と悪臭、菌とウイルスとワクチンと化学物質、暴力と悲鳴、吐瀉物、排泄物、悲しみと枯れ果てた涙、悲しみすらも感じない心、火傷と凍傷、欲望、妬み、恨み、埃の山、貧困、腐敗、猜疑心、自己否定、依存、アディクション、性愛、かすかな希望もないという事実を認めること、
それが、私の住むもうひとつの世界。
その凄まじさと均衡を取って生きるためには、穏やかで平和な部分も必要。
平和で穏やかなだけでは生きられない、私の業。
それだって、私を構成する大事な部分。
人間の汚い部分を全部背負っても、上の5つを言える人が、イエス・キリストなわけだから、人間には到底達せられないものだから、私だってそうなれるわけではないけど、
汚い部分を否定するだけの人にはなりたくないと思ってる。それでも、「それでいい、あなたはあなたのままがいい」と言える側の仕事ができる人のままでいたい。
ドブの底から這い上がってきて生きてる私の存在価値を、そこにばかり求めてしまう癖は治したいと思って、不気味なくらいポジティブなFacebookを更新し続けてしまうけれども。
混沌としているのが私。明るく極楽とんぼに見えて、ごちゃごちゃしすぎてる、多分きっと、それでちょうどいい。