なるこの夢ばかり

ナルコレプシーです。家族みんなadhdです。リア充のために本音はここに置いていきます。

天使への階段

ここに引っ越してきて、15年。

母子家庭10年。

ワンオペの育児の相談を聞きながら、贅沢言ってんじゃねえ、と思いながら、過ごした頃もあった。

40キロギリギリまで痩せたこともあった。

難病が2個も発症した。

それでも働き続けたのは、私が働けなくなったら、子どもは施設行きだからだ。

息子のサッカーの送迎、挫けそうになったら、チームのみんなが助けてくれた。

娘が学校に行けなくなって入院して、私まで倒れかけても、みんなが支えてくれた。

 


ここで再び公務員になったのは、その仕事が好きだったからじゃない。

体の弱い私が安定して子どもを育てるには、それしかなかったからだ。

 


最後はパワハラでつらかった。

誰も助けてくれなかった。

幸いにも、2人の子どもの大学までの学費は、財形貯金に退職金を合わせれば、間に合うことが分かった。

わたしは公務員を捨てることにした。

18歳の頃の夢に、20年のブランクを乗り越えて、挑戦することにした。

 


私は、ホスピスのナースになりたかった。

人の死に向き合い、亡くなる方も、残される方も、良かった、って思えるお手伝いをすること。

それが私の夢だった。

 


つらかった日々は、文字通り「天使への階段」だったんだと思う。

 


私は明日から、天使に戻ります。

 

プライド

先日のFNS歌謡祭で、ASKAが出てきてPRIDEを歌った。

薬の人なのに、もうテレビは許したのか、同じ福岡出身の酒井法子はまだ表だった活動はできないのに、男の人は出てこれるのか、男女差だったら不公平、それとも元々の人気の差?と思ったり。

焼け木杭に火がついてしまうに違いないと、SNSで昔の知り合いを簡単に探せる世の中になったのに、私は10代の頃の恋人と、出会わないように気を付けていた。独身時代。

共通の友達と繋がっても、その人の連絡先を知っていても言わないで、と言い続けてた。

私は彼が幸せになるために、彼は私が幸せになるために、お互いがいない方がいいと思ったから、別れた相手だった。


最後に交わした言葉は新幹線のホームで「着いたら電話するね」「うん、待ってるね」だった。

電話はかかってこなかったし、私からもかけなかった。

それは言葉を超えた深い愛であり、私と彼は同じ気持ちだった。そんな素敵な悲しい恋をした。

16歳から20歳の青春時代を全部捧げた恋は、本物すぎて、あまりにも本物すぎて、それ以降も彼以上の恋に落ちた相手は、現れなかった。


そんな彼がどうしているのか知りたくなったのは、人生の半分を過ぎた頃。生きているのか、幸せになっているのか、知りたいと思った。私も再婚したし、今さら灰に火はつかないという思いもあった。

しかし、知人を辿っても、誰も彼の消息を知らなかった。中学が同じだから、誰かはきっと知っているだろうと思って、同中の友達先輩後輩に聞いてもらっても、本当に誰も知らなかった。

私は、かえって心配になった。なぜ見つからないの?どうして誰とも繋がってないの?死んだり犯罪を犯したりしてたら、誰かを通じて風の噂が流れてくるだろうけど、それはないから、無事に生きてはいるんだろう。

そうは思っても心配は消えない。彼は友達があまり多くなかった。家族はいるのだろうか。親御さんとの関係は、どうなっているのだろうか。

今、孤独の中にいないか、それが心配になった。最後の手段、宗教づてに探そうか、と思ったりもしていた。


彼は、チャゲ&飛鳥が大好きだった。飛鳥のように髪をサイドバックに上げているのが、とても似合っていた。カラオケでもたくさん、歌ってくれた。チャゲ&飛鳥=彼との思い出の曲、だった。


そして、前日、ASKAがテレビに現れた。歌った曲は、PRIDE。彼もよく歌っていた曲だ。


「心の鍵を 壊されても

譲れないものがある PRIDE」


腑に落ちた気がした。

彼は、今、孤独であっても、それを私に知られたくない。幸せであっても、それを私と話して喜びを分かち合うことをしたくない。

昔のように、傷を舐め合う関係になりたくない。


あの頃私たちは、尾崎豊の「I love you」そのままの関係だった。似たような境遇で、お互いの寂しさを、お互いの肌の温もりで埋め合っていた。

それが本当の恋だったのか、愛だったのか、付き合っている当時は、私にも断言できなかった。

新幹線のホームでキスを交わして手を振り、それが別れとなってしまった後に、私たちは愛し合っていたことに、気がついた。

でもそれは別れをやめる理由にはならなかった。2人ともがそれぞれ本気で悩み、同じ魔答えを出した。それが、私たちの愛だと思ったから。


私は、彼を探すのは辞めることにした。

もう一度出会う必要があるのなら、必然的に出会うだろう。

今はまだ、その時ではない。一生その日は来ないかもしれない。


精一杯の強がりで、笑顔で手を振った、新幹線のホーム。

あれが私たちの愛の集大成。

一生に一度、そんな恋ができたこと、心に秘めて、誇りを持ってこれからも生きていこう。


それが私の PRIDE

誰のために本を造るか(読書感想文から随想)

話題図書、「世界でいちばん透きとおった物語」を読んだ。

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昨日、病院で休職を1ヶ月延ばすことと、手術を1か月早めることを聞いて帰ったら、密林からいつものオシャレだけど再利用し難いパッケージで届いていた。

ミステリーを買ったのは、子どもの頃の〇〇文庫以来かもしれない。ミステリーは頭を使うし読み終わった後に気分が暗くなるので、本の虫であった私でも、好まなかった。

前回、長い休職をした時に、ミステリー好きな娘に何冊か「読んでみてよ」と無理やり本を押し付けられ、

「最近のミステリーは、特急列車や観光地で起きるものではない」

「普通の読みやすい小説と同じく、後味がさっぱりしている」

と言うことを、ようやく知ったばかりだ。

一昨日、密林に勤めている旧友が、「紙の本でなくてはいけない本だ」と感想を書いていたのに、興味を惹かれた。

彼女も、子どもの頃からの本の虫。たくさんの本を貸し借りして読んだ。

娘の部屋にある「魔女の宅急便」は、小学生の頃、彼女から借りパクしたままになってしまった本だ。

彼女の3行ほどのレビューを読んで、密林で本を探した。

私は「単行本を手にしてその重みやインクの色、紙質などを十分味わい尽くしてこそ、本の本たるものを感じられない」と思っていたので、文庫本は買わない、電子書籍は読む価値なし、くらいに思っていた。

しかし、この本はどれだけ探しても単行本が見つからなかった。仕方なく文庫を1クリックした。

実は、私の亡き父は出版社をしていた。家族経営の小さな会社だったので、父は編集から営業まで全部1人でやっていた。父自身が原稿を書くこともあった。挿絵は母が色を塗り、私は高校生ながら、原稿用紙1枚5円で校閲をしていた。

住んでいた家は、在庫の重い本が詰まった段ボールで、あちこち床が抜けかけていた。

本を1冊造るのに、中の紙、外の紙、インクの色、字体、表紙の紙質など、たくさんのサンプルの中、家族会議であーでもない、こーでもないと言いながら何日も論じ合った子供時代。

文庫本は読み捨てるもの、という感覚は父の作る本への敬意と、本屋の娘という誇りでもあった。

f:id:hime3to3:20230801113553j:imageどれがタイトル?

本作に戻ろう。

実は私は120ページで、この本に隠された答えを見つけてしまった。その瞬間、手の中の文庫本は透き通った。

仕掛けのわかったミステリーに読む価値を見失ってしまう人もいるだろうが、私はミステリー好きではなく、「物語」が好き。

本は薄いし、論調は今風で柔らかいし、さらさらと最後まで、1人の青年の物語を読んでしまった。

ラストは予想通りすぎた。

しかし、それでも、心は温かくなった。

どうしても「本を造る」ことに生涯をかけていた、父と重なった。


いろいろな理由で、父の出版した本はほとんど残されておらず、私の手元には上下巻組の紙箱に入った専門書1組しか残っていない。

その本のあとがきは、印刷以外のほぼ全てを自分でやっていた父が書いていた。

そのあとがきが、漫才のような内容で、私はとても恥ずかしく、最初の方だけ読んで本は封印されていた。

しかしこの小説を読んだ後、私はまっすぐ部屋に向かい、父の本を開きあとがきに目を落とした。

あとがきの終わりの方に、父が本作を造るにあたって込めた想いが綴られていた。


1 普遍性があること

2 科学的であること

3 後生に残ることを信じて

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父は、漢方や薬膳が全くマイナーな時代に、東洋医学書の出版と販売をしていた。

当時、東洋医学(中医学)は、胡散臭いイメージがあり、今のように身近なものではなかった。

父は、続いて、このような言葉を残している。

「ブームで終わるものなら作らなかった。100年後にも通用し、評価されるだろうと信じて。」


本日、1時間半の短時間で読み終えてしまった小説、「世界でいちばん透き通った物語」は、私に父の教えをたくさん思い出させてくれた。

身体を冷やすと言って、生野菜は絶対食べなかった父。

「地物で季節のもので、その時の自分に必要なもの」であれば、生でも良いとされた。それがこれ。

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きゅうり。今朝、産直で買ってきた、新鮮なもの。

珠洲の塩田の天然塩で板摺し、これからアゴ出汁と酢で漬ける。

今、私はステロイド剤の副作用で全身浮腫がひどい状態。

父は、「夏に浮腫む時は、水捌けをよくするキュウリと、利尿作用のあるアイスコーヒーをたくさん摂りなさい」と私に教えた。

奇しことに、私は暑くなる前に、キュウリを山ほど買ってきて、家族で食べようとしながら、この本を読んだのであった。

本を造る人、その思い。

父が子にかける思い。

その両方があるからこそ、その本を今朝読んで良かった、と思える。

亡き父に手を合わせたくなる物語であった。

 

最後に、どれがタイトルかもわからない、父の本を復刻販売し、後世に残してくださっている、谷口書店様 https://xn--z8j3ah2b4856byrk.com/ に心から感謝申し上げます。

 

予防接種 「みんなのため」の意味

予防接種、受けない人が増えている。

子どもに受けさせない人も増えている。

義務ではなく、任意。

それでも、国や地方公共団体が、全額払って打たせているのは、「病気の予防」だけでなくて、「公衆衛生」の意味もある。

今日は「みんなのため」の予防接種について、考えてみたい。

 

(個人の意見です)

 


私たちは子供の頃、おたふく風邪水疱瘡の予防接種を打たなかった。

幼稚園とか小学校とか、適当なところで小さい時にかかって、免疫を身につけていた。

そして、クラスで同じ病気が流行るたび、暴露を受けて再感染を繰り返し、免疫力を高めて、終生免疫となっている。

これらの病気は、大人になってかかると、重病になる。だから、小学校までに罹らないと、自費で予防接種を打ったものだ。

 


だけど、風疹や麻疹は、その頃すでに「あまり流行らない病気」だった。だから、ブースター効果で免疫を強くすることができず、失っている人も多い。そのため、妊娠すると麻疹風疹の抗体検査をして、罹らないように予防する必要があった。

今、ある年代の男性達に限り、風疹の予防接種の助成がされているのも、生まれくる新しい命を先天性風疹症候群で耳の聞こえない子で生まれされないためだ。

今は、麻疹風疹については、1回の注射では95%の人にしか免疫がつかないし、ほぼブースター効果が見込めないから、全員2回接種になっている。

 


私よりひとつ年上の人までは、直径1.5センチほどの、丸いケロイド状の予防接種の痕がある。種痘、天然痘(痘瘡)という病気の予防接種の痕だ。

種痘は、天然痘(痘瘡)という、たいへん死亡率の高い恐ろしい感染症の予防接種のこと。種痘が開発され、世界中で予防接種を実施した結果、1980年にWHOが撲滅宣言をした。予防接種によって、絶滅した病気だ。

天然痘の予防接種、種痘の歴史は古く、18世紀。ジェンナーが少年(自分の子どもという説も)に牛の乳搾りの女性の抗体を切りつけて塗った、というところから始まる。

日本に伝わったのは明治18年。予防接種どころか医療の技術も低く、「手を洗うと、手術の後の生存率が高くなる」とか発表されていたレベル。もちろん予防接種の後遺症や副反応も今よりひどかっただろうし、そもそも注射器の消毒すら、昭和の終わりまでちゃんとしてなくて、だから予防接種回しうちによるウイルス性肝炎というもので、現在も国が補償をしている。

天然痘にかかって死ぬくらいなら、種痘を打とう」という先人達の200年にわたる努力によって、天然痘は地球上から根絶された。

だから、私の歳から後の人には種痘の接種痕が、ない。

 


今、予防接種を受けない人、受けさせない親、受けさせてもらえなかった子、が増えている。

その人たちの選択を責める気はない。なぜなら、その人達は、自然感染して、周りにウイルスや菌をばらまき、予防接種を打った人の抗体を高める役に立つ、からだ。

だけど、選択権のない、「受けさせてもらえなかった子」はどうだろうか。

成長とともに罹患したら、重症化する。水痘や麻疹は命を落とす。自分の子どもの耳が聞こえなくなる。原因を作ったのは「受けさせなかった親だ」と言われる。もちろん、公費接種の期間をすぎても、自費で予防接種は受けられる。大人になって、自分で働いたお金で、予防接種を受けることはできるけれども。(何万円だが)

 


じゃあ、コロナワクチンはどうだろう。

私は、職業と担当業務、患者様に接する最前線にいるので、1番に打つことになった。

でも、この職業でなければ、絶対躊躇した。1番最初に打った最前線の医療従事者達は、記録をつけさせられた。治験のようなものだ。どれくらいの割合でどんな副作用が起きて、、、。

私だって、20代の30%以上が副反応で高熱を出すワクチンなんて、打ちたくなかった。もっと安全性の高くて、変異ウイルスにも効果が高いワクチン開発されてから、打ちたかった。でも、打ったから、最前線で仕事をできる、自分がいる。(ワクチンを打っていても、罹る時は罹ります)

 


今、ワクチンを受けている人は、自分が罹っても重症化しないため、他の人にうつさないため、コマーシャルの言葉のとおり、「自分のために」「みんなのために」副作用が強いと言われていても、勇気を出して受けに行ってます。家族にうつさないために、予防接種を受けられない12歳未満の子供達のために。

予防接種は、ある意味「愛」だと思っています。だから私たちも、愛を届けたい気持ちに応えるべく、必死でワクチン接種が早く進むように、力を尽くしています。

 


夜中の2時に届く、県や国からのメール。100時間を軽く超える残業。鳴り止まぬ苦情の電話。

県や政府や上層部の方針変更で日々変化を求められる現場。昨日までのことが全てゴミ箱、突然全然違うことを明日までにやれと言われる。虚しさを感じながらも、「公衆衛生」の仕事をしています。

 


18歳にもうすぐなる娘はワクチン受けたくないと言います。中高生は夏休みのうちに予防接種受けれるようにしてあげたいけど、今のペースでは間に合わない。

医療系に進む娘は、絶対、「コロナワクチン打ってないと授業受けれない、実習に行けない」になると予想されるので、みんなが打つ時期に、打ってくれるといいなあ、と思いますが、この年齢では絶対に、2回目の後、2日は寝込むと思われます。

受験に差し障らない時期に、打てるといいと思います。

(何よりも、コロナにかかって受験に行けなかった、は最悪です。。。)

 


息子は、私立大学の附属なので職域接種で受けれることを期待しています。ワクチン打ってないと試合に出れない、遠征に行けない、になることは確実でしょう。

そういえば娘も、大手交通系企業の運営する高校なので、夏休みのタイミングで職域やってくれると本当に助かります。交通系、観光系の企業で今は暇になっているので、その間に職員みんな打っちゃえば、安心ですよね。秋の行楽シーズンには、間に合うかもしれません。

 


でも、やっぱり、自分の子ども達が受けるのは、副反応が少ないワクチン開発されてからがいいな。10代は重症例はほぼ無いし。

今、コロナワクチンは、明治18年の種痘ワクチン状態。日本に伝わったばかり、国産ワクチンはまだなし、ワクチンを打って、1年後抗体がもつかどうかのデータもない。(1年経ってないから、当たり前)何年に一回打てばいいのか、毎年なのか、一生効くのか、誰もわからない。変異型にワクチンが効果がどれくらいあるのか、これから新しく出てくる変異型には効果を発揮するのか、誰もわからない。

 


私は、うちの職場で1番に予防接種を打った理由はまだあります。打っても大丈夫、と、後に続く職場の人に安心を与えるために、1番を引き受けました。みんなが躊躇する現場に、1番に飛び込める人になるために。「みんなのため」の予防接種です。(幸いといっていいかどうか、私は2回目副反応がほとんど出なかったため、変な安心を周りに与えてしまい、みんなに「こんなひどいとは聞いてない」という見本になってしまいましたが。)

それからもうひとつ。私自身が、予防接種を正しく打てる人になるために。現場でナースが不足した時に、「打つ係」として駆けつけられるように。

雇上げのパートナース達に、正しく「打ち方」を指導できるように。より安全な集団接種を行うには、どうすれば良いか、考えるために、1番に打ちました。

 


今回のコロナが終息しても、長生きしても、次の病気は次々出てくるでしょう。

追いかけっこです。人類が負ける日がいつ来てもおかしくない。

予防接種は増えるでしょう。その一方で、消える予防接種も少なくてもあるでしょう。だけどそれは、地球上の人類全員、肌の色も言葉も文化も国籍も超えて浸透しないと起きない奇跡です。

 


「みんなのため」の言葉の深さを知って欲しくて、今日は長文を書いてみました。

 


ちなみに、うちの娘は子宮頚がんワクチンを受けていません。しかし、任意で自費でB型肝炎ワクチンを受けさせました。

何が必要で何が不要か、考えてあげられるのは親と周りの大人だけ。正しい知識を持って、「なんとなく」とか「みんなそうだから」とか「怖いから」ではなく、判断をしてあげてほしいと思います。

次の世代、次の次の世代、子ども、孫、ひ孫、玄孫たちのために。f:id:hime3to3:20210627154921j:image

 

※ 個人の意見です。

平成から令和へ 家族を考える17連休

世間は10連休に胸躍らせる、ゴールデンウイーク1週間前、実父が亡くなりました。

両親が20年前に離婚し、私は母と暮らしているため、ほとんど連絡も取り合わない父でした。

親戚は誰もおらず、子どもは私1人。生まれた地とはいえ、たった1人で最期の時を苦しく過ごすのはいたたまれず、夫が背中を押してくれたこともあって、大阪から民間救急車で県をまたいで家のそばの病院に転院し、苦痛を伴う処置は全てやめて、手を握って看取ることができました。父は最後は穏やかな顔をして、眠ったまま逝きました。

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火葬までの間、孫になる子ども2人と夫と、父のそばで父の大好きだったポーカーなどをやり、みんなで賑やかに過ごしました。

父は奇しくも誕生日の日に煙になって青空に上りました。

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忌引きからそのままお休みに入り、まさかの17連休に。

平成から令和に変わった5月1日、夫の実家の岡山に子供達を連れて5日までゆっくり過ごしてきました。

新しい家族はあたたかく迎えてくれました。子どもたちも新しいおばあちゃん、ひいおばあちゃんになつき、すっかり自分の実家のようにくつろいでおりました。

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小学校6年生の時、「昭和から平成へ」というタイトルで作文を書きました。

あれから約30年。私の家族形態もなんども変わり、今の家族がいます。

家族を大事に、穏やかに暮らしていける、そんな時代を過ごせたらいいな、と思っています。

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地球規模の夢は持てない小さな私ですが、大切なものを大切にする暮らし、をして、次の時代まで夫とともに生きたいと思います。

ボヘミアン・ラプソディー(ネタバレあり)

この感想文を書くのに、ちょうど1週間かかった。

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感想① 英語が聴き取れる能力が残っていてよかった。随所に出てくる「beautiful!」を、聴き落とさない程度に。

 

感想②12月に恋人と見に行くべき映画。

12月1日は、世界エイズデー

 

感想③応援上映に行くことに決めて、もうチケット取った。一緒に歌いたい。応援上映、歌詞が字幕で出るらしい。

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[フレディ・マーキュリーセクシュアリティ、名前、人種その他について]

いろんなジェンダーで彼を分類しようとするけれど、ジェンダーはフリーなわけで、例えば「LGBTのうちのどれ?」なんて質問は愚問だ。フレディは分類にとらわれなかった、それを超越していた、と、パンフやいろんな解説に書いてあるけれど、彼に限らず分類できない人はたくさんいるし、私もそうかもしれない。そもそも分類は必要なのか。マイノリティ(少数者)と言うけれど、マイノリティと呼ばれている人を集めてきたら、むしろその方がマジョリティなのではないか。そしたら、セクシュアリティで人を分類すること自体が意味をなさない事に気づく。それは、国籍や民族、人種も同じ。それで分類されることに、意味をなさない事もある。

彼は「フレディ・マーキュリー」だった。彼自身が自分をそう呼びたがり、そう呼ばれたがったのだから、彼はフレディ・マーキュリー、とだけ認識すべきだ。あえて肩書きをつけるなら、「Queen(彼の家族)のリードボーカルフレディ・マーキュリー」が適当だろう。ただし、あなたが心の中で「私の女神、フレディダーリン♡」と呼ぶ事も、自由だ。


[フレディとメアリーの関係について]

彼と彼女は恋人同士であった。婚約者であったのは6年間かもしれないけど。恋人を上回る友人、でもない。ただの普通の恋人同士だ。と、私以外にも、「生涯友人であり続けた」という解説に「??」となった人は多いだろう。

でも、メアリーは結婚し、子どもがいる。フレディと最後に居た彼は、最後まで恋人だったと言ってそれを誇りに生きている。

生きている人が、生きやすいためには、生きている人の表現に合わせるのが最も合理的で、誰も不幸にならない方法だと思う。

映画を観た人が、「絶対あいつら恋人やん」と思っても、それは自由。そう思っておけばいい。

フレディも、「彼女とは親友だった」と、死後の映画で語られることを喜ぶだろう。愛する人の幸せを、願い続けるだろう。


[ラミ・マレック(フレディ役)について]

どこかで見たことあると思ったら、ナイトミュージアムの王子様だった。

すごすぎる。素敵すぎる。この人のこと、私はずっと好きだし、次の映画も見るだろう。

シザーハンズの頃から、ジョニデが好きなように。


[HIVエイズについて]

大学の頃、エイズ教育について研究をしていた。性教育をやりたくて、養護教諭を目指した。保健師だから二種免許は取れたけど、教員採用試験は断念。

でも、まわりまわって、中高生の性教育の講師のお仕事ができたり、HIV検査のカウンセリングができたり。12月の街頭キャンペーンや、啓発イベントなんかも、たくさん参加させてもらえた。参加者としても、スタッフとしても、企画者としても。夢は忘れなければ、形を変わるかもしれないけど、必ず叶う事を知ったエピソード。

フレディ・マーキュリーのことは、そんな私は、仕事のエピソードのひとつとして知っていた。仕事のBGMは、ポップでハートフルだった。彼が発症せず生きていたら、もう、高齢者。HIVが、必ず死ぬ病気ではなくなった今は、HIV感染者たちが高齢者になり、新しい問題が出てきた。介護の問題、施設の問題。

いろいろ、私たちが考えなきゃいけないことは、増えていく。HIVポジティブかどうかは、水痘ウイルスの潜伏による、帯状疱疹が出るか出ないかに似ていると思う。そう考えると、個性がひとつ増えただけ、当たり前のことになる一方、危機感や意識の低下に繋がらないとも限らない。

だから私は、12月には、赤いリボンを胸につけて仕事をしている。「思う」こと、それがとても大切だと思う。

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[私のこと]

この間、長年の夢だった、「恋人ができたら、一緒に手を繋いでエイズ検査に行きたい」という夢を叶えてもらった。

HIV検査の仕事をしながら、仲良く来て、お互いに結果を見せっこして、仲良く帰る恋人たちをたくさん目にしてきた。私も、やってみたかった。結果はわかっていても、それはとても素敵な時間だった。受けに行くだけで満足して、まだ結果聞きに行ってないけれど。

大学生の時に、スーパーバイザーの先生から、「エイズの人の気持ちを知りたければ、まずエイズ検査に行ってみろ」と言われた。

共同研究をしていた親友と2人で、保健所に行って検査を受けた。今は迅速検査で40分で結果が出るけど、当時は3週間後に、もう一度保健所に行かないと結果は出なかった。

心当たりがなくても、3週間は長かった。親友とは、その話題に触れなかった。

3週間後の夕方、バス停から保健所まで歩く15分の距離がとても遠かった。当時の保健所の冷たい空気(今はツリーが飾ってあって、ジャズが流れてるよ)オレンジ色の封筒、渡されたハサミで「自分で切って、見てください」と言われた、あの切る手応え、感触、はっきりずっしり覚えている。

それからの人生で、HIV検査は何回か受けている。妊娠するたび検査されるし、入院するたび検査されるし。だから、結果はわかっているけど、でも、行って、結果の見せ合いっこを、してみたかった。でも、「いいね、行こう」と言ってくれる人とは、なかなか出会えなかった。それが現実社会なんだよね。

 

そして、今週末、ボヘミアン・ラプソディー応援上映に行く。映画全体の感想を書いてなかった。とても綺麗で、愛に溢れた、幸せで泣ける映画だ。いっぱい泣いた。

週末は、一緒に歌ってくる。1年くらいは真面目に音楽部(軽音部)だった私の後ろでいつも流れてた曲たちだから、きっと歌える。歌詞は全部、字幕で出るから、覚えなくていいらしいよ。

楽しんでこよう。メリークリスマス。

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高次脳機能障害

うちの家族には、高次脳が1人いる。

 

もし、私が結婚してて、高次脳になって、夫がどこかで不倫しながら、私の介護をしていたとしたら、

離婚してほしい。私のことを見捨てるわけじゃない。そこまでして助けて欲しくはない。障がいや介護を不倫の言い訳にする夫などいらない。

 

ひとりぼっちになっても、施設でも、私が離婚や不倫を理解できる状態だったとしても、できなかったとしても。

 

そんなことまでして、側にいて欲しくない。

バカにするな、と叫びたい。